Aemilius Paullus 家


Aemilius Paullus 家の系図
アエミリウス・パウルス家

 アエミリウス・パウルス家は、アエミリウス氏族の数ある家系のうち、共和政中期に人物を輩出した家系であり、大体前300年頃〜前150年頃に執政官を輩出した。
 この家系から出た特に有名な人物は、前216年にカンナエで敗死したルーキウス・アエミリウス・パウルス(219,216執政官等)と、その息子で前168年に第3次マケドニア戦争において勝利したルーキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクス(182,168執政官等)であろう。前者は、同僚のウァローが戦闘から逃げ出したのと違って戦場に踏みとどまり散ったヒロイズムが、後者はその高潔で完璧な人間性が高い評価を得ている。
 しかし、パウルス家の名を名乗ってはいないが、実質この家から出た人物として最も有名なのは、小スキーピオーであろう。マケドニクスの次男でコルネーリウス・スキーピオー家に養子に入った彼は、カルタゴを滅ぼし、文人のサークルを主催した事で名高い。
 パウルス・マケドニクスが上の息子2人を他の氏族へ養子へやった後、残った2人の幼い息子が相次いで亡くなったことから、この家名は彼を最後に消滅することとなった。パウルス家は実質4代しか続かなかったわけだが、のちに同じ氏族に属するレピドゥス家のマールクス・アエミリウス・レピドゥス(78執政官等)が、その長男に偉大なパウルスの名前を名乗らせた。このためその家系にはパウルスの名を家名、あるいは個人名として持つ人物が複数存在するが、彼らは実質上レピドゥス家に属すると考えた方がよいらしい。また、アウグストゥス帝の「たった一人の友人」と記された(タキトゥス『年代記』1.5)パウルス・ファビウス・マークシムス(11執政官等)はファビウス・マークシムス家に養子に入った小スキーピオーの実兄の家系であった。その息子もパウルスの個人名を名乗っている(パウルス・ファビウス・ペルシクス、後34年執政官等)。
 また、パウルス家は他の有力家系と姻戚・養子関係を結んだことでも特徴がある。大スキーピオーの妻(グラックス兄弟の祖母ともなった)、大カトーの長男の妻、大スキーピオーの養孫、ファビウス・マークシムス・クーンクタートルの孫の養子を出しているのである。
 「Paul(l)us」という単語はラテン語で「わずかの」を意味し、『Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology』は、「この家名は疑いなく、彼ら一員の身長の低さに由来している」と書いている。綴りとしては「Paullus」、「Paulus」どちらの表記法もあり得たらしい(私はとりあえず『THE MAGISTRATES OF THE ROMAN REPUBLIC』に従って「Paullus」の方を採用した)。




Marcus Aemilius Paullus
 マールクス・アエミリウス・パウルス


貴族
祖父:Lucius
父:Lucius
302 執政官
302/1 騎兵隊長

 パウルス家から出た最初の執政官。
 第二次サムニテス戦争(326-304年)終結後、ローマが影響力を及ぼし始めていたイタリア半島南部にスパルタ王家のクレオニュモスが侵入・海賊行為を繰り返し、前302年にはそのうちのトゥリィ市が占領された。執政官パウルスはこの敵に向かい、一回の戦闘でクレオニュモスを完敗させ、その船に戻ることを余儀なくさせた。トゥリィ市は元の住民に戻され、その領域では平和が確立された(リーウィウス、10.2)。しかしリーウィウスの参照した他の史料によると、クレオニュモスに対しては独裁官のユーニウス・ブブルクスが送られたともいう。
 翌年、不穏となった中部イタリア(特にマルシ人、エトルリア人)の脅威のためマールクス・ウァレリウス・マークシムス・コルウス(348執政官等)が独裁官に任命され、彼によってパウルスが騎兵隊長に指名された。彼らはまずマルシ人に対して続けざまの勝利を収めて領土の割譲を含む講和を成立させ、独裁官は新たな神託を得るために陣営を離れてローマに向かった。その間に騎兵隊長のパウルスは糧秣を徴発すべく行動していたが、パウルスの率いていた部隊はまったく予期せず突然、エトルリア軍の襲撃を受けてしまう。態勢を立て直そうとした時にはすでに部隊は包囲されつつあり、パウルスはいくつかの軍旗と多くの部下を失った後、陣営への恥ずべき脱出をおこなわなければならなかった(リーウィウス、10.3)。
 リーウィウスは、この年の騎兵隊長がクィーントゥス・ファビウス・マークシムス・ルリアーヌス(322執政官等)であったという異説に対して、「この様な大慌てのうちの脱出などは、我々が知っている(偉大な)ファビウス像と矛盾している。」と述べ、自身がアエミリウス説を採用した理由としている。




Marcus Aemilius Paullus
 マールクス・アエミリウス・パウルス


貴族
祖父:Lucius
父:Marcus Aemilius Paullus(302執政官等)
息子:Lucius Aemilius Paullus(219執政官等)
255 執政官
254 執政官代行(艦隊指揮官)

 第一次ポエニ戦争におけるアフリカでのマールクス・アティーリウス・レーグルス(267執政官等)軍団の敗報を受けて、その残存部隊を救出するための艦隊指揮官(前255年の執政官)となる。同僚のセルウィウス・フルウィウス・パエティヌス・ノビリオル(255執政官等)と共に艦隊を指揮し、シチリア島沿岸を経てアフリカへ向かう途中コッスラ島を占領し、またヘルマエウム岬付近でカルタゴ艦隊と遭遇、これを攻撃して簡単に打ち破り、大勝利を得た。
 そして首尾良く残存部隊をアスピスで収容し、シチリアへの帰途についた。しかしこの時パウルスらは、シチリア島の沿岸諸都市がローマ艦隊の赫々たる勝利の前にひれ伏して帰順を申し出るはずだとの期待から、悪天候の可能性と停泊地の無さを考慮してシチリア島の南側の航路を避けるようにとの水先案内人の進言を無視して、艦隊をシチリア島南岸の荒海へ進めたという。
 その結果、カマリナの沖合にさしかかった時に猛烈な嵐に巻き込まれ、艦隊の約8割を失う大惨事に至る。海岸は船の残骸と死体とで埋め尽くされた。
 ポリュビオスはこの件に関してローマ人一般に見られる強引さと浅慮を指摘している。しかし『歴史』訳注には「シチリア島北西部にあったカルタゴ勢力圏内の諸都市を避けるために、ローマ艦隊は南側の航路を選んだのかもしれない。だとすればポリュビオスの批判は当を得ていない。」ともある(ポリュビオス、1.36-37)。
 二人の指揮官は翌年、執政官代行に任命され、海軍凱旋式を与えられた。また、パウルスは戦勝記念柱をも建立している。




Lucius Aemilius Paullus
 ルーキウス・アエミリウス・パウルス


貴族
祖父:Marcus Aemilius Paullus(302執政官等)
父:Marcus Aemilius Paullus(255執政官等)
息子:Lucius Aemilius Paullus 'Macedonicus'(182執政官等)
娘:Aemilia Tertia(Publius Cornelius Scipio Africanus(205執政官等)の妻)
曾孫:Marcus Livius Drusus(112執政官等)?
219 執政官
218 大使
216 執政官II
?-216 神祇官

 前216年のカンナエの戦いの大敗北の中、戦場から逃げることを拒否して戦死したことから古来尊敬を受けた。旧貴族の祖先の遺風を体現した人物でもあった。第3次マケドニア戦争の戦勝者ルーキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクスの父であり、また大スキーピオーの岳父にもあたる。
 前219年は、すでにイベリア半島でハンニバルとの間に緊張関係が高まっており、それに惹起されてイリュリアにおけるローマの従属王であったデメトリオスが掠奪・攪乱行為を起こしていた。これに対し、パウルスは東方の状況を安定させるためにマールクス・リーウィウス・サリーナートル(219執政官等)と共に執政官に任命され、イリュリアに遠征をおこなった(第2次イリュリア戦争)。
 デメトリオス軍は複数の堅固な地点で防備を固め、自信を持っていたが、パウルスらはこれを巧妙さと、それを上回る剛毅さでもって容易に短期間で撃破し、ファロス島を征服。デメトリオスをしてマケドニア王フィリッポス5世のもとに逃げ込むことを余儀なくさせた(ポリュビオス、3.16-19)。
 またこの時パウルスは、元老院によってイシスとセラピスの神殿の破壊を命じられた。それは元老院が、ローマへのどんな新しい宗教的な儀式の導入も疑いの目で見ていたからであったが、「祖先の遺風」の強固な支持者であったパウルスはこの命令を遵守した。誰もその神聖な建物にさわる勇気がなかった時、パウルスは執政官の着衣である紫の縁飾りのついた上衣を脱ぎ捨て、手斧をつかんで神殿の扉のうちのひとつを壊したと伝えられている(ウァレリウス・マークシムス、1.3.3)。
 この第2次イリュリア戦争の功績によってパウルスとサリーナートルは凱旋式の栄誉を受けたが、それにもかかわらず、彼らが略奪品を兵士間で公平に分けなかったという請願のため裁判を受けることになった。サリーナートルは有罪の判決を受け、パウルスはかろうじて有罪を免れた(次項の使節の出発は、両名の前218年3月15日の執政官退任後であったはずで、だとするとこの裁判は使節が帰ってきた後の事かもしれない)。
 前218年には、サリーナートルとパウルスの両名は、他2名と共に、マールクス・ファビウス・ブッテオーのカルタゴ本国への使節に同行している。この使節は、サグントゥム陥落の報を受け、その非をただすためにローマが派遣したもので、ファビウスによる有名な第2次ポエニ戦争の開戦の宣告が行われることになったものであった。
 前216年、民心の収攬をもって民衆派のガーイウス・テレンティウス・ウァローが執政官に選ばれると、貴族派の人々はそれに対抗するための有力候補として、戦争の経験もあり、民衆に媚びることを嫌うパウルスを執政官としようとした。彼は裁判にかけられて以来気が滅入っていたらしく、長い間頑強にこれを拒絶していたが、とうとう受けざるを得なくなった。

(この後の部分、まだ書いていません)

 また、前122年の護民官として、ガーイウス・グラックスの失脚に中心的な役割を果たしたマールクス・リーウィウス・ドルースス(112執政官等)は、このアエミリウス・パウルスの曾孫だったともいわれる(『古代ローマ歴代誌』P192。ガーイウス・グラックスもまた、アエミリウス・パウルスの曾孫(娘の娘の息子)であった)。ただしどの様に血を受け継いでいたかは不明である。ドルーススの祖父の名がマールクス・リーウィウス・ドルースス・アエミリアーヌスというのだが、彼については何も伝わっていない。彼がもともとアエミリウス氏族の出(アエミリウス・パウルスの息子?)であって、リーウィウス・ドルースス家の養子となった事が非常にありそうな事として推論されうる。しかし、父に二人の妻がいて、アエミリアを母として生まれた息子としてアエミリアーヌスと呼ばれた可能性もある。ただしこの場合には、アエミリアの父がパウルスであったとしても、ドルーススはパウルスの玄孫(孫の孫)となるから、曾孫であるという説には合致しない。




Aemilia Tertia
 アエミリア・テルティア


貴族
父:Lucius Aemilius Paullus(219執政官等)
兄弟:Lucius Aemilius Paullus 'Macedonicus'(182執政官等)
夫:Publius Cornelius Scipio Africanus(205執政官等)
息子:Publius Cornelius Scipio(180-鳥占官?)
   Lucius Cornelius Scipio(174法務官)
娘:Cornelia(長女)
(Publius Cornelius Scipio Nasica Corculum(162執政官等)の妻)
  Cornelia(次女)
(Tiberius Sempronius Gracchus(177執政官等)の妻)

 カンナエの戦いで戦死したルーキウス・アエミリウス・パウルス(219執政官等)の3番目の娘で、大スキーピオーの妻となった。
 その長男プーブリウスは生まれつき病弱で政治経歴を断念せねばならず、また子どももなかったため、アエミリアの甥をその養子とした(これが有名な小スキーピオーである)。プーブリウスはキケローによって、その雄弁さとギリシア史の知識を称賛された人物であったが、恐らく早くに亡くなった。
 次男ルーキウスは堕落した人物で、監察官によって元老院から追放された。2人の娘は共にその時代の第一級の人物に嫁いだ。特に次女のコルネーリアは彼女自身も、夫となったティベリウス・センプローニウス・グラックス(177執政官等)も、どちらも評価の並はずれて高い人物同士であった。
 この次女のコルネーリアの結婚に関しては、『古代ローマ歴代誌』P170に次の様な逸話が掲載されている。
「あるとき大スキーピオーは友人たちから、次女のコルネーリアの結婚相手はもう決まったかとたずねられた。まだ決めていないと答えると、それでは誰にするつもりかと質問が続き、何気ない会話が真剣な話し合いとなった。スキーピオーは帰宅した時、娘の結婚相手を決めたことを、妻のアエミリアに報告せねばならなくなった。
 その時アエミリアは、コルネーリアはセンプローニウス・グラックスのような人物と結婚させるつもりでいたのに……と腹立たしげに言った。それを聞いたスキーピオーは胸をなでおろした。センプローニウス・グラックスこそ、彼が選んだ結婚相手だったのである。」
 このセンプローニウス・グラックスとコルネーリアとの間に生まれたのが、有名なグラックス兄弟であり、コルネーリアは後に「グラックス兄弟の母」としても有名となった。
 アエミリアは穏やかで寛大な性格であった。夫の大スキーピオーは年老いてから、ある召使いの少女を特に可愛がった。アエミリアはその事を知らないではなかったが目をつぶっていた。隠棲地リテルヌムの別荘で大スキーピオーが死んだ後も、その召使いの娘に復讐などせず、この「罪を犯した娘」に自由を与え、家にいる解放奴隷のひとりと結婚させさえした(ウァレリウス・マークシムス、6.7.1)。
 大スキーピオーはその死にあたって、妻アエミリアに対し、遺体をローマへ運ぶことを禁じた。
 アエミリアは、夫よりもかなり長生きした。彼女の財産は莫大であったが、養子縁組によって彼女の孫となった小スキーピオーに受け継がれた。小スキーピオーはその遺産を父ルーキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクスに離縁された実母パピーリアに与えた。





(ルーキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクスについては、とりあえず省略します。『プルターク英雄伝(四)』のアエミリウス・パウルス伝、『古代ローマ歴代誌』、あるいはhttp://cwaweb.bai.ne.jp/~dsssm/spqr22.htmをご覧下さい)




マケドニクスの妻と子について

妻:Papiria(Gaius Papirius Maso(231執政官)の娘;上2人の息子の母;離縁)
  二人目の妻の名前は不明(下2人の息子の母)
息子:Quintus Fabius Maximus Aemilianus(145執政官等)
   Publius Cornelius Scipio Aemilianus(147執政官)
  (他に下に2人息子がいたが前168年の凱旋式頃に相次いで12歳、14歳で死亡)
娘:Aemilia Prima
Aemilia Secunda
Aemilia Tertia(Marcus Porcius Cato Licinianus(152頃法務官予定者)の妻)
娘婿:Quintus Aelius Tubero(168副官?等)

 マケドニクス(ルーキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクス。彼は最初からマケドニクスと呼ばれたわけではないが、呼び名の簡便性から以下マケドニクスの名称を使う)の最初の妻はパピーリアといい、前231年の執政官ガーイウス・パピーリウス・マソーの娘であったが、長年連れ添った後、立派な子どもを生んでいたのに離婚した。このパピーリアとマケドニクスとの間の子どもが、有名な小スキーピオー(Publius Cornelius Scipio Aemilianus(147執政官))とその兄(Quintus Fabius Maximus Aemilianus(145執政官等))である。離別の理由は伝わっていないが、プルータルコスは性格の不一致説を示唆する記述をしている(プルータルコス、『アエミリウス・パウルス伝』5)
 マケドニクスはパピーリアと別れてから二番目の妻を迎えたが、この女性の名は伝わっていない。この二度目の結婚から男の子が二人生まれたので、その二人は家に留め、パピーリアとの間に生まれた息子たちは最も有名な血統の立派な家へ養子に遣った。兄の方のクィーントゥスは、5度も執政官になったファビウス・マークシムス・クーンクタートルのところへ遣り(ただしクーンクタートルの息子の養子としたのか、孫の養子としたのか、曾孫の養子としたのかについて、史料によりばらつきがある)、弟の方のプーブリウスは従兄弟にあたるプーブリウス・コルネーリウス・スキーピオー(大スキーピオーの息子)が養子にした。

 ところがマケドニクスが後継者として家に留め置いていた二人の息子は、前168年にマケドニクスが第3次マケドニア戦争に勝利し、凱旋式を挙げる前後に相次いで死んでしまった。一人は凱旋式を挙げる5日前に14歳で、もう一人は凱旋式の3日後に12歳で息を引き取ったのである。これによってマケドニクスは後継者を失ってしまった。ローマでは一人としてこの悲しみを共にしない者はなく、すべての人は運命の残酷さに身震いをして、神々が感激と歓喜と犠牲に充ちている家にこれほどの悲痛をもたらし、勝利の賛歌と凱旋式に嘆きと涙をまじえることを敢えてするのを恐ろしく思った(プルータルコス、『アエミリウス・パウルス伝』35)。
 凱旋式の後に下の息子が死んだ時には、マケドニクスはローマの民衆を民会に集め、慰めを必要とする人のようではなく、かえって自分を襲った不幸のために心を痛めている市民達を慰める人のような演説を、飾り気のない真実な心から行ったという。
「私は人間の仕業は一つとして恐れたことはないが、神々の仕業の中では最も信頼の置けない変転極まりないものとして運命を常に恐れ、ことに今度の戦争に関しては運命が爽やかな風のように自分の行動を助けていただけに、何か変化と逆転を絶えず覚悟していた。現に、一日でブルンディシウムからイオニア海を渡ってケルキュラーに達し、そこから五日目にはデルフォイで神に犠牲を捧げ、更に次の五日目にはマケドニアで軍隊を受け取り、慣例通りにその軍隊の浄めの式を行い、すぐさま行動を開始して次の十五日が経つとこの戦争に極めて立派な結末を付けた。事があまりになめらかに進んだために運命を信頼せずにいたが、敵軍の方からは至極安全で危険は一つもなかったので、勝利を得たこれほどの大軍と戦利品と捕虜にした王たちを連れて海を渡る時には特に幸運に対する神の変心を恐れていた。しかも無事に諸君のところへ帰って歓喜と感激と犠牲の式に充ちたこのローマの町を見ることができても、運命の女神は人間に対して混ざりもののない怨みのない大事業を与えてはくれないということを承知していたから、依然としてそれを警戒していた。自分の家で私がこんな不幸にぶつかって、私が二人だけ後継者として残しておいた立派な息子の弔いを祭の日に次々と営むようなことになるまで、私の心はこの恐れに悩み国家のために将来を案じないではいられなかったのである。しかし今私は最も大きな危険を脱して元気を起こし、運命の女神が諸君に対してこれから無害な確実なものになったのだと考えている。運命は私および私の不幸を充分に今までの成功に対する怨恨を果たすために使い、人間の無力の標本として、凱旋式に引き回される敗者よりも遙かに明白なこの凱旋者を示したのである。ただ、ペルセウスは負けたけれども子どもを保ち、アエミリウスは勝ったけれども子どもを失った。」(プルータルコス、『アエミリウス・パウルス伝』36)

 マケドニクスの娘としては、まず三女のアエミリア・テルティアが知られる。彼女は大カトーの長男であるマールクス・ポルキウス・カトー・リキニアーヌス(152頃法務官予定者等)の妻となった。彼女は前168年の時点で「まだ子どもであった」との記述が残る。ローマ法では女性は12歳から結婚可能となるので、その時点で12歳以下であったことは確実で、だとすれば彼女はパピーリアとの間に生まれたのではなく、二番目の妻との間の子であったことになろう。

 さらにもう一人の娘がクィーントゥス・アエリウス・トゥーベロー(168副官?等)に嫁いだことが知られている。彼女が何番目の娘であったのか不明であるが、『ラエリウス』の注(P129)によれば、彼女は小スキーピオーの妹(つまり年下。母が同一とは限らない)にあたるらしい。
 トゥーベローはローマ人の中でも一番立派に貧乏に耐えた優れた人だった。アエリウス氏族は監察官を幾人か出したほどの名門であったが、この時代トゥーベロー家は、親戚16人が非常に小さな家とただ一つの農地でみな満足し、子どもや妻が大勢いるのに一つの籠を共通に使っていた。マケドニクスはためらうことなくこの一家の若者クィーントゥスに娘を嫁がせ、このアエミリウスの娘は自分の夫の貧困を恥と思わず、かえってその貧困の原因になった徳性に感激していたという。
 クィーントゥス・アエリウス・トゥーベローは、前168年副官としてマケドニクスの下で勤め、ペルセウス王の保護を任された。マケドニクスが莫大な戦利品をそのまますべて国庫に納めさせた際に、その中からただひとつだけ5リーブラ(2kg前後)の銀の皿をトゥーベローに贈ったが、それまではトゥーベロー家にはまったく銀も金もなかった(リーウィウス、45.7.8;ウァレリウス・マークシムス、4.4.9;プルータルコス、『アエミリウス・パウルス伝』5,28)。ただ、このクィーントゥスが死去した時、その相続人は嫁資返還のために父祖伝来の地所を売却しなければならなかったという(『古代ローマを知る事典』P265。ローマでは花嫁側が持参金を用意するのが習わしで、結婚解消の際には嫁資を元妻またはその実家に返還しなければならなかった)。
 クィーントゥス・アエリウス・トゥーベローとアエミリアとの間の息子はクィーントゥス・アエリウス・トゥーベローといい、小スキーピオーの友人で法学者・ストア哲学者であり、グラックス兄弟の改革に強硬に反対した。

 マケドニクスの死の時(前160年)、その財産はやっと37万ドラクメーあったと言われ(1ドラクメー=1デナリウス、1デナリウスを『古代ローマを知る事典』P342にならって1600円とすると、5億9200万円)、その相続人としては他家に養子にいっていた二人の息子がいたが、弟の方の小スキーピオーは自分が裕福なアーフリカーヌスの家に養子となったので、すべてを兄に譲った(プルータルコス、『アエミリウス・パウルス伝』39)。
 また小スキーピオーは実父が亡くなった後はその生母パピーリアを養い、また養子先の祖母アエミリア・テルティアの死によって彼が受け継いだ遺産をも、生母に贈った。この遺産はパピーリアの死によって再び彼のもとに戻ってきたが、彼はこれも自己の所有とはしないで、今度は二人の妹に与えた。その妹の一人は、カトー・ケーンソーリウスの息子マールクス・カトーに、他の一人はクィーントゥス・トゥーベローに嫁いでいた(キケロー、『ラエリウス』注11.5)。






Aemilia Tertia
 アエミリア・テルティア


貴族 175頃?〜?
父:Lucius Aemilius Paullus(182執政官等)
異母兄:Quintus Fabius Maximus Aemilianus(145執政官等)
    Publius Cornelius Scipio Aemilianus(147執政官)
夫:Marcus Porcius Cato Licinianus(152頃法務官予定者等)
息子:Marcus Porcius Cato(118執政官等)
   Gaius Porcius Cato(114執政官等)

 第3次マケドニア戦争の戦勝者ルーキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクスの三女。小スキーピオーの異母妹にあたる。
 父がマケドニアのペルセウス王を征討するために執政官に選ばれた時(前168年)にはまだ子どもで、次の様な話が残っている。
 父パウルスがペルセウスを征討するための執政官に任ぜられると民衆たちは華々しく行列をして家まで送っていったが、家の前で娘のテルティアが涙を流しているのをこの父親が見かけた。そこで娘を抱き上げて何を悲しんでいるのかと尋ねると、娘は父に抱きついて接吻し、「お父様、うちのペルセウスが死んだことを御存じないの。」と言った。テルティアは家で飼っていたそういう名前の子犬の事を言っていたのである。そこでパウルスは「これは運がいい。この前兆を受け入れよう」と言ったそうである(キケロー『予言論』46、プルータルコス『アエミリウス・パウルス伝』10)。
 テルティアは、大カトーの長男でその非の打ち所のない性質から将来を嘱望されたマールクス・ポルキウス・カトー・リキニアーヌスと結婚した(彼はまた、テルティアの父パウルスに従って第3次マケドニア戦争にも従軍していた)。この結婚は、各種文献の表現から読み取れば、親の意志よりはカトー・リキニアーヌスの意志によったようであるが、確証はない。また、パウルス家は大カトーと反目していたスキーピオー家と親しい関係にあったため、この結婚によってカトー家とスキーピオー家の反目が少なくとも休戦状態に入ったものと思われる。
 この二人の結婚後のこと、妻を失って男やもめになっていた大カトーは、若い女奴隷をこっそりと自分のところに出入りさせていたが、家が小さいために嫁のテルティアに感づかれた。またある時、その若い女奴隷が横柄な態度で若夫婦の部屋の前を通り過ぎたのをカトー・リキニアーヌスが見て、何となく苦い顔をして横を向いたのを大カトーは見逃さなかった。そこでこの事が若夫婦に喜ばれないのを知ると、大カトーは自分の秘書のサローニウスの娘を正式に自分の妻として迎えることにした(プルータルコス『大カトー伝』24)。このサローニウスの娘と大カトーとの間に生まれた子どもが、小カトーに繋がる家系である。
 テルティアの夫カトー・リキニアーヌスはすぐれた法律家となっていたが、もともと体が弱く、前152年頃、法務官予定者であった時に、名誉ある地位を約束されながらこの世を去った。
 テルティアと夫の間の子どもとしては、上の息子マールクス・ポルキウス・カトー(118執政官等)と下の息子ガーイウス・ポルキウス・カトー(114執政官等)が伝わる。マールクスは祖父大カトーに似て激烈な雄弁家であり、多くの演説を書き残したが執政官職在職中に死去した。ガーイウスは二流の弁論家で、ユグルタへの使節となった時に逆に説得されユグルタ側に引き入れられた為に非難され、スペインの町に退いてその町の市民となった。
 マールクスの息子、マールクス・ポルキウス・カトーは上級按察官と法務官を努めたあと、ガリア・ナルボネンシスを統治したが、そこで死去した。その他の子孫は伝わっていない。


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